性愛文学の歴史: 伝統と神聖なポルノ

岩尾龍

今日言語は混乱、分裂、崩壊している。君の黙想に確信、鼓動、興奮を起こさせるためにこれらの写真を提供しよう。これは、真実と熱望を連鎖しており、心体に真実と幻想を浸透させる。

思春期以来、アジア女性は僕達の心に生きつつ”けている。事実、その変声期に、心体かひとつだと悟り、矛盾、為善、そしておとぎ話に疑問を持ちだした。力となるものは、第6から第2チャクラを循環し、融合し、その時真実は解放される。

社会は、何らかの理由で真実を否定しようとしている。それはきっと、嫉妬と恐れから来るもので、人は、人をどこまで自由にさせてやるかという利己主義的抑制を実践することを切望している。それは恐れであろう。真実、知識、正義、自由への恐れ。すべての言葉は我々がここで定義する女性、美とはかけ離れている。

アジア女性が自由の女神として、又はこれらのページのレイアウトとして現われようとも彼女らは、我々の命です。 ですから、知覚のある者は、性的関心について知ることを必要とし、望み、魅了させられる。 彼らはそれらの女性のイメージを目撃し、参加することを必要とし、そして自分を中心に置き、そのアイデアの中に、何が存在し何が可能かを、確認する。 可能性は、女性がいつも存在しているように、現在、過去、未来を一致させた時にやって来る。

可能性は、漢字で性的能力の許可と書く)

マドンナは、インタビューマガジンの表紙のポーズを撮った時気ずかなかったかもしれないが、彼女の大胆さは、何千年ものタントリックの伝説を呼びかけている。 そういうわけで、女性のかぎりない力を現すインドの神シュリラクシミとマドンナを紹介しよう。この時代、女性の力というのは,非難されているのだが。

君がアジアンガールを楽しんでいただくのは疑いもなく、同じ要領でこれらのポーズとジェスチャーは、性的欲求を呼び起こすだろう。君と彼女等は、この力を感じるであろう。 女性の性的関心を表わす畏敬の念は、淫らに探究されるのではなく、崇拝、沈思、黙考、理解されるべきである。これらのイメージを想像して自己で性的刺激を得ようとするのは異常なことではない。 我々は、不完全である(全体の半分)であるということは自然に認められている。

 

歴史学者と、本”The Once and Future Goddess”の作者として有名なエレナー、ガードンは、ニューヨークオープンセンターでの講義で、カリフォルニアインデイアン族の女神を象徴するとして狩りうどが洞窟の前でマスターベーションをする儀式が行われるのを説明した。

ショックを受けた観衆に対してガードン講師は、これは、男性が神と懇談するところの神聖で、静粛な儀式であり、変質的でもふうか変わりでもないとすぐに指摘した。(サンスクリプトでrituというのは月経)これは正式に確認はされてないが、(世評によると今でも存在しているらしいが、神聖な神道の儀式で日本の天皇は生きた神になるために、アマテラス、神的先祖と性的親交の隠された儀式を経験しなければならない。

この礼拝儀式のために、陰門を見せているインドからの11世紀の聖像の写真と、我々の写真を見比べてごらん、それらは、両方とも見せびらかせるためだと考えられる。ニューヨークの自然歴史博物館で、チベットの展示物を鑑賞してみて下さい。又はパリのルーブル博物館、その他の博物館をたずねて古代の展示品を見て来て下さい。多くの仏教と古代像は精神的理由によりまったく性的であります。仏陀までもが、ぼっきしたペニスで立っている。

 

のどこにでも、仏陀は、プラハ、真実、なんらかの女性像と結合している。これらの美しい複雑な彫刻像は、仏陀のすべての相の誇示であります。下の方を見てご覧なさい、モンクが神のペニスを彼の配偶者の陰門に挿入している(こまかく彫られているのが、うやうやしく見られるでしょう)彼等は、意識の一番深い所で心と魂と体が一番理想的に調和されているのを表現している。これらの事実は、我々みな女性によって性的に刺激されるべきだと新たに理解させられる。西洋では、圧制的ユダヤ、クリスチャン、イスラム教の道徳のために苦しめられてきた。

この伝統は無謀に真実を押し殺し、女性への性的欲求を抑制する武器であるとしている。この種の性的倒錯は女性が売春婦で汚らしい非人間的に扱われる男性雑誌のような矛盾を明示している。これは悲惨な状態である。この課題については後程 Asiaeroticaで論議しよう。このサイトでは、男女関係を乱すようなことはしません。我々の意見に同意されましたらお知らせ下さい。今こそこれまで以上に女性を愛し尊敬し、彼女らにうまく興奮させられるべきです。

 

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